カオナシ
ある時、「顔が見えなくなった」
人間社会に人と人とのつながりはとても大切である。
さらにネットが普及現代では知らない人ともつながることが簡単になった。それは時に幅が広がり楽しいことだが、残酷にも悲惨なつながりもある。
学生がつながるときに使われるものはSNSである。何かあればつぶやき。何かあれば人にチャットを送る。
手紙や家庭電話を使う事は明らかに減った世の中。
便利であるから使う。なにもおかしいことではない手紙や電話も同じである。
学校で、教室で、会話の内容に真実があるのだろうか。会話の本心はSNS・ネット上にしかないのではないだろうか。
そんな世界で人と人が顔を合わせて話す必要があろうか。
美しくも儚い地球に住む人間は顔を持っていない。
私はある時から人の顔が見えなくなった。
今週のお題 10連休どやったか
特大連休は9連休でした。
連休中ずっと考えていたは嘘ですが、たまに考えていました。ブログどうするか。
ほぼ趣味で勉強もかねて始めて人が見てくれていることへの喜びが少しわかりました。
このブログを黒歴史にするくらいひどいものにしたいと思います。
と考えていた連休なのですが、なんか色々考えすぎだと思っているようで自分が適当にわがままに考えていることを再認識できました。
ネットではニュースがいくつもありました。悲しいニュースが記憶に残りますが悲しさを理解できない人がいる日本に悲しんでいます。
連休が有ろうが無かろうがどっちでもいいです。
守れる命を守れずして命は語れないです。
命は心臓ではありません。脳でもありません。
命とは存在です。
交通事故対策
先日、高齢者の運転による大きな交通事故がありました。親子の死者と多くの負傷者がでたひどい事故でした。
高齢者の運転による事故は近年多い気がします。関西では高速道路でバイクに乗った大学生を後ろから追突する死亡事故もありました。
10年ほど前には高齢者が若者に対して
「最近の若者は」
という言葉がありました。
今では若者が問題を起こす高齢者に対して差別用語で呼んでいたりします。
こういったように若者と高齢者互いに問題を起こしています。
では交通事故・道路交通法違反をするのは高齢者ばかりなのか
そんなことは全くなく若者の方が多く事故を起こしているんではないかというデータもあります。(たしか・・・)
結局はニュースで取り上げる交通事故はすべて大きい交通事故なんです。視聴者は小さい事故を見たところで関心は薄いんです。
普段起きないような珍しい事故をニュースで流さないと視聴率は取れないので高齢者の交通事故が数字をとるために流してるという事だと思います。
しかし交通事故は無い方が良いに決まっているので対策を考えてみたいと思います。
・高齢者の運転免許証廃止
一定の年齢になった場合、運転そのものを禁止にすると自動車の交通事故は単純計算減ります。しかし交通の利便性が激減することも確かです。自動車がなくては生活できない人は多くいます。代わりになる利便性の優れた交通手段が必要になります。まったくもって現実的ではありません。
・運転講習ではなく新たに運転免許試験を実施
自動車運転免許証を取得するには自動車学校で勉強して試験に合格すると免許を取得できます。一定の年齢に達した時に更新ではなく別に試験を実施するのはどうか。金額面は無償とし試験のみの実施が無難ではないかと思います。面倒くさいのは確実です。試験をすることで改めて正しい交通ルールを見直すことができ運転に対して考え方が変わる可能性があります。しかし本当にこれで事故が減るのかルールを守るのかはわかりません。いきなり実施しても効果がわからないです。
・センサーによる自動ブレーキの搭載を強制化
最近の自動車には人や車、壁にセンサーが反応して自動的にブレーキをかけてくれるシステムがあります。この機能を年齢問わずすべての自動車に搭載することを強制化することで一定数の事故は防げます。ただし現在では新しい自動車にしか搭載されていません。今まで乗っていた車には搭載可能なのか。詳しくないのでわかりませんが、可能ならば法律で強制化させることができる気がします。しかし新しいものは高い上に製造数も間に合わないと思います。金額面が1番の問題点だと思います。一体だれがこの分、負担するのか。自己負担ならはんらんですね。
どれもこれも現実的では全くないと思ってます。交通事故の問題は個人個人の気持ちの問題だと思います。誰かがルールを守らないから事故は起こります。
一番の対策はみんなでルールを守ることでしょう。
交通事故を起こしたらすぐに警察に電話しましょう。けが人がいるなら救急車も
右手に盾、左手に剣を
なんていうか攻撃と防御を反対にする有名な言葉なんですが
弱者が強者に勝てないことはないと思うんです。というのも強者が強いのではなく弱者が弱いと勘違いしていると思います。
弱者の方が私は強いと思います。本当に強い人には皆がついていくほどの強さを持っています。
強さにも種類があると思います。ただの支配的強さに価値はありません。未来もないと思います。
正直よくわからないですが、自分の価値を押し付けている気がするんです。
まあここまで話してきたわけですが、新社会人の皆さん従う上司は自分で決めましょう。教育係の人の言う事を聞くのではなく自分の信頼できると思う人についていきましょう。厳しい言葉も愛情の形になります。
自分の入る会社にはそこのルールがあります。
従う理由はそこにいるからです。自分のわがままが通るのは自分が子供の時だけ、最近勘違いしている方が多いと思います。
仕事が忙しいのは仕事があるからだということ仕事がなくなれば職がなくなる。
法律に違反するようなことはダメですが、全部が違反しているわけではないと思います。勉強してから喧嘩しましょう。
合理的な喧嘩には利益が生まれます。
それでは良き社会人ライフを…
別れた数だけ・・・
今週のお題「卒業」です
卒業シーズンという事で今までの人と「別れる」ことになる人が多くいるのではないでしょうか?
卒業式で泣いてしまう人が数多くいると思います。本人だけでなく親もなくのではないのでしょうか?
私自身卒業式で泣いた経験がなくて正直気持ちがよくわかりません。親がなく理由もよくわかりません。
私には人のこころがないのでしょうか?
私は学校の勉強が嫌いで卒業した時の解放感が最高でした。大学に進学した時なんかはやっと面白いことが学べるとワクワクして入学しました。
卒業と聞くとうれしいものだと私は思っているのですが、どうなんでしょうか。
まぁ人それぞれ思うことがあるから泣く人もいるのだと思います。これは互いに分かり合う事はないでしょう。そもそもの考え方の問題なので
せっかく学校で出会い仲良くなったのに卒業という節目があることで別れることになります。
しかし今まで別れた後でも付き合いはあるのではないでしょうか?仲が良いならきっとまた出会うと思います。
別れがなければ新たな出会いもないのです。
はてさてどうしてなのか。
理屈はこうです。
別れがなく仲良しが集まったままだとそのままでいいからです。そしてなかなか自分が変わらないのです。
新しい場所へ1人で行くと自分自身で変わります。変わった自分と新たな人とがつながります。
実際どっちがいいかなんてわかりません。がしかし、私は新しいことが好きで同級生という関係が嫌いなので別れるたびに新たなつながりが太くなります。
「今まで」がどうだったかなんていらなくて「今」「現在」どうなのかが新しい場所ででは大切だと私は思っています。
悲しいことがわからなくもないですが別れなきゃわからないことも多くあると私は思っています。
新生活でわからないことがあったら人を頼ってみましょう。
私も相談にのりますのでTwitter(@kind_dog831)のDMでお待ちしておりますw
人はいつ死ぬのか #2
勝手にシリーズしてる#2ですが、話が続くと思わせて基本完結する内容です。
学生が直面している問題いじめ、家庭内暴力が原因による精神的な「死」を知っていますか?
命を落とすことが「死」であると言いましたが(前回)、それだけではないと思います。本来できることが本人の意思とは別に制限されてしまう事もある意味死に近いと私いは考えます。
どういった制限か私が考えるに
「意思の制限」が死に近しく苦しい事だと思います。
・親の虐待がひどくしたいことができない、さらに何もできなくなる。
・学校でのいじめが原因で自身の周りへ何もサインが出せなくなる。
こういったことがその人を本当の意味での死を考えさせてしまうのです。
このような人は助けてほしいサインが出せないことが最大のサインです。会話がなくなったり自ら1人の道を選ぶようになります。何をしても他の人へ迷惑になるという思考になってしまいます。
自身の意思を自身で殺すというのが「別の死」だと私は考えます。
人が死んでいるタイミングは心臓が動かなくなった時だけなのでしょうか?
生きていても死んでいる人はいるのかもしれないです。ただ死んでしまった人を生き返らせることはできないですが、生きているなら助けられる命であることには変わりないです。
身近な命を死んだままにするのか、助けて息を吹き返らせるのか。少しの行動で世界は変わり命は助かるというのが私の意見です。
春から新学期が始まり今周りにそういう人がいるならあなたの行動が変わるかもしれません。
そしてあなたの学校に「死人」が現れないことを祈ります。
人はいつ死ぬのか #1
㊟宣伝活動ではありません
最近悲しい死をニュースで見ることが多く色々考えています。
とくに未成年子供の死を見ることが増えているように感じています。
今回から「死」について書いていきます。
大学の人気講義をしている教授が「死について」やっているそうです。その本と近すぎず遠すぎずの内容を書いていきます。
人が死ぬ時とはいつでしょうか?一般的に死ぬタイミングは「心臓が止まった時」です。
本では他の死ぬタイミングについて書かれていました。簡単に言いますと今までの自分が自分ではなくなった時です。(難しいので気になる方は本を読んでください)
子供たちが死を体感することがあると私は思っています。
病気、事故、殺人、自殺
どれも悲しい死です。尊厳死などどこにもない悲しい死です。
病気だと医者やドナーやお金の力が必要なことが多くあります。本人の努力頑張りも大切で周りの人が助けること勇気づけることが必要だと言えます。
事故だと交通事故が多いでしょうか。他にも食事が関係する事故もあります。スポーツの事故もあります。保護者の注意力が原因だったり他人の注意力だったりします。車の事故だと運転手が悪いことが多いです。運転するのには免許が必要です。免許があるという事は気を付けて安全に運転できることが確認できた人に渡されるのです。どうしようもない事故もありますが。
殺人は人を殺す意味が分かりません。やめてください
自殺も本当にやめた方が良いと私は思っています。個人の自由だという人もいますが、自由に死ぬ意味は何ですか?世界の美しさを見つけてほしいと私は思います。世界に絶望しないでください。周りの人が100%悪いです。自殺に追い込んだ人が悪いです。自殺を考える人には救いの手が必ず出てきます。あきらめずにその手をつかんで離さないでください。
さらに私は命を落とすだけが「死」だとは思っていません。いじめやDVなんかで対象の人の行動言動の制限をかけることも十分「死」と同じ状態だと思います。生きていても「生」を実感できないならばそれは「死」なのかもしれません。
生きる意味は誰にも分らないです。生きる理由はそれぞれにあっていいのではないのでしょうか。